NHK・ETV特集『それはホロコーストのリハーサルだった』(初回放送・2015年11月7日、再放送・2015年11月14日)に関連して

私の知る限りで、2点、情報を補足させていただきます。


【1】 映画『私は訴える』(1941年)について

 ナチの安楽死計画は1941年8月末に「中止」されますが、この映画は、それと入れ代わりに、ナチ政府が一般のドイツ国民にこの計画の必要性を理解させるために製作・公開したものです。ナチのプロパガンダ映画ということもあって、ドイツ国内では視聴が難しかったと記憶していますが、今では、英語字幕付のDVDがアマゾン等で購入できます:
https://www.amazon.co.jp/Ich-Klage-I-Accuse-DVD/dp/B008D66JVC

以下、この映画に関する私の簡単な解説を貼り付けます。

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 最後に、ある映画をご紹介したいと思います。そのストーリーは、ナンシー・クルーザンさんに関する番組と共通するところも多いのですが、まずはその映画の粗筋をご紹介します。
 映画の主な登場人物は、病理学者のトーマス・ハイト、その妻のハナ、そしてトーマスの友人であり、ハナの主治医である医師ベルンハルト・ラングの三人です。
 トーマスは、ベルンハルト・ラングから、妻のハナが多発性硬化症におかされていると知らされます。多発性硬化症は神経疾患の一つで、30歳前後で最も多く発症すると言われています。多発性(multiple)というのは、いろいろな症状が出るという意味ですが、視覚障害、歩行障害、手足のしびれや運動麻痺といった症状が見られます。映画の中ではハナが、足を躓いたり、手がしびれてピアノが途中で弾けなくなったり、また目が見えにくくなったりします。
 トーマスは深いショックを受けながらも、ハナの治療のため新薬の開発に努めますが、何の成果もえられません。自分が不治の病であることを知らされたハナは、トーマスにこう訴えます。「私が最後の瞬間まで、あなたのハナでいられるように助けてちょうだい。あなたの知らないハナ、耳も聞こえず、話しもできず、白痴になったハナでは絶対にいや。そんなこと私には耐えられない。……そうなる前にあなたは私を救ってくれると約束して、トーマス。そうするのよ、トーマス。私を本当に愛しているのなら、そうするのよ」。そして、トーマスはハナに致死薬を与え、ハナは死にます。
 いかなる場合でも延命につくすことが医師の責務であると考えるラングは、そのことを知り、トーマスを激しく叱責します。しかし、ラング自身、ある出来事をきっかけに、自分のそうした考えに疑問を抱き始めます。ラングは自分が以前に何とか一命をとりとめさせたある子どもの母親から手紙を受け取ります。そこには「私たちを助けることができるのはあなただけです」と書かれていました。ラングは往診のため、その両親の家を訪ねるのですが、そこには子どもはいません。ラングが子どもはどこかと尋ねると、父親は無愛想にこう答えます。「子どもはどこかですって?――施設ですよ。目は見えないし、何も聞こえやしない。おまけに全くの知恵遅れだ。そうそう、あなたは見事に治してくれましたよ、ねえ先生。哀れな子を安らかに死なせてくれる代わりにね」。ラングは「助けてくれ」という母親の訴えが、施設にいる自分の子どもを安らかに死なせてやってくれ、という意味であることをそこで初めて悟ります。
 一方、トーマス・ハイトは、ハナのお兄さんの訴えがもとで、殺人罪で裁判にかけられます。トーマスの弁護人は、ハナの死は多発性硬化症による自然死であり、トーマスは無実だと弁明するつもりでおり、ラングもそう証言することによって友人を救おうと考えます。しかし、ラスト・シーンで被告のトーマスは、法廷で自ら次のように訴えます。映画の脚本をそのまま引用します。

>>裁判長(苛立ちながら)「ベッカー医務参事官は、ハイト教授の投与した致死薬が効き始める前に、呼吸中枢に生じた硬化病巣によって死がもたらされた可能性もあると証言しました。(急き立てながら)あなたもその可能性を認めますか?(……)ハナ・ハイト夫人の病状に関するあなたの所見からすれば、この両方が原因で彼女が死亡したというということはありえますか?」ラング医師、沈黙。裁判長は答えを待つ。
ハイト(興奮して身を乗り出す)「ラング氏は私の妻が死亡する二時間前に、妻はまだ二ヵ月生き長らえるとおっしゃっていました。しかも、その診断は客観的に見て、ゆるぎないものだ、と」。(裁判長と検事、互いに驚いて顔を見合わせる。)
弁護人(あわてて小声でささやく)「あなたは自分の無罪を棒にふる気ですか、ハイト教授!」
ハイト(立ち上がり、堂々と話し始める。早口で)「弁護士さん、わかっています。しかし、私はもう黙っていることはできない!私はもう何も怖くない。人びとに轍を残そうとする者は、先陣を切らねばならない。私は自分が被告だとも、もう思っていません。なぜなら、私は自分のしたことによって、私にとって最も大切な存在を失うという罰をすでに受けたからです。(厳しい口調になりながら)いいや、私は被告なんかじゃない!私の方こそ告訴します!私は、人民に奉仕するという役目を医師と、そして裁判官がまっとうすることを妨げている条文を告訴します。だから私は、私のしたことをもみ消そうなどとも思っていません。私は自分で自分を裁きます!(ほとんど叫び声になりながら)なぜなら、どんな結果になろうとも、これは警告となり、人びとを眠りから覚ます呼び声となるのだから!(静かに)真実を告白します。私は不治の病にあった自分の妻を彼女の望みによって、その苦しみから解放したのです。私の今の人生は彼女の決定に捧げられています。そして、その決定は、妻と同じ運命に会うかもしれないすべての人間にもあてはまるのです。(頭を垂れながら、消え入るような声で)判決をお願いします」。<<

 この映画の題名は『私は訴える(Ich klage an)』と言います。自分は、多発性硬化症におかされた妻の望みにしたがって、彼女に積極的安楽死をおこなったが、それを殺人罪に問う今の法律を、私の方が訴える、というトーマス・ハイトの主張を一言でまとめた題名です。
 映画の中でトーマスがハナにしたことは、ナンシー・クルーザンさんに対してなされたことと異なります。しかし、トーマスのこの訴えは、ナンシーさんのお父さんが彼女のベッドの傍らで読み上げた声明に通ずるものがあるでしょう。どちらも、死なせてあげることが本人のためであり、本人もそれを望んでいたのだという主張です。
 しかし、問題は、この映画がいつ、どこで、どういう目的で制作され、上映されたのか、です。
 この映画は1941年にドイツで制作され、上映されました。その時のドイツでは、どういうことが行なわれていたでしょうか。第3章でベンノ・ミュラーヒルさんが述べていたことを思い出してください。
ドイツでは、1939年9月1日付のヒトラーの命令書にもとづいて、安楽死計画が開始されました。しかし、ヒトラーは1941年8月24日にこの安楽死計画について口頭で中止命令を出します。なぜか。カトリック教会を中心として、強い抗議と非難が向けられたからです。安楽死計画は秘密裏に実施されましたが、何万人もの大人や子どもが殺されたわけですから、隠しおおせることはできませんでした。
 実際にはこの中止命令後も安楽死計画は1945年まで続けられたのですが、ナチ政府は、この中止命令と入れ代わりに、安楽死計画の必要性をドイツ国民に理解させるための宣伝政策に力を注ぎます。その一つとして制作・上映されたのが、この『私は訴える』という映画なのです。この映画は1940年から制作が開始されましたが、それが完成してベルリンで初上映されたのは1941年8月29日、安楽死計画の中止命令の直後です。
 他にもいろいろなプロパガンダ映画が制作され、その中には施設で暮らす障害のある人たちを故意に惨めに描き、そういう人たちは生きるに値しないのだというメッセージを、観る者にストレートに伝えようとするものもありましたが、「私は訴える」という映画はそうではありません。あくまでハナの望みにもとづいて、夫のトーマスが彼女を死に至らしめ、そして罪に問われる、という人間ドラマと悲劇が中心です。
 ナチの宣伝相だったヨーゼフ・ゲッベルスは、「最良のプロパガンダは間接的に機能する」という考えを信条にしていたと言われます。つまり、大衆の心に何かをメッセージとして深く根づかせて、受け入れさせたいと思うなら、それをストレートに伝えてはダメだ、あくまで間接的に伝えなければならない、ということです。『私は訴える』もゲッベルスのそうした考えにそったものでした。
 ナチ政府が実際におこなったことは、この映画で描かれたこととは全く異なります。ナチの安楽死計画は、本人の意思にもとづいて、人びとを死に至らしめたわけでは全くありません。第二次大戦が始まり、全面戦争を遂行する上で足手まといとなるとされた人たちを、本人の意思にもとづくどころか、その家族にも何も知らせず、死に至らしめていたのです。
にもかかわらず、ナチ政府は、この安楽死計画の必要性を、たとえばこの『私は訴える』という映画を通じて、人びとに間接的に伝え、受け入れさせようとした。このプロパガンダによって、プロパガンダとはある意味で真逆のことを受け入れさせようとした。
 ナンシー・クルーザンさんの番組を紹介するとき、私はいつもこの『私は訴える』を同時に紹介することにしています。なぜなら、ナンシーさんの番組もまた、間接的に機能する最良のプロパガンダになりうるからです。

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鈴木晃仁編、深津武馬・市野川容孝著『対話 共生』慶應義塾大学出版会、2013年、236-242頁。
文中冒頭の「ナンシー・クルーザンさんに関する番組」は、The Death of Nancy Cruzan(1992年3月24日放映):
http://www.pbs.org/wgbh/pages/frontline/programs/transcripts/1014.html です。


【2】 第一次大戦中の大量餓死

 ナチの安楽死計画は、その約20年前の第一次大戦中のドイツ国内の精神病患者等の大量餓死とつなげて考えなければ、正確には理解できません。以下、拙稿から引用します。

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 第一次大戦中、ドイツ国内の精神病院では、約七万人の精神病患者が飢えと栄養失調で死亡している 。K・ドゥルナーによれば、この数は、ナチの安楽死計画によって1941年以降に殺害された精神病患者の数にほぼ等しい 。
 第一次大戦のこの痛ましい状況を、当時のドイツの精神科医たちは、どのように見ていたのか。ある精神科医は、次のように述べている。「戦争中の精神病院における非常に高い死亡率に目を向けるならば、私たちの罪のない患者たちがおちいった、かくも多くの死の犠牲は、もちろん痛ましいものとして深い同情を寄せるべきである。……しかし、いずれにしても、健康な人たち以上に多くの食糧を精神病患者に与えることは不可能だったし、許されることでもなかった。戦争中に犠牲になった者の多くは、その生命が自分にとっても、他人にとっても何の利益にならない、そういう人たちだった。それは確かだけれども、中には、病気にもかかわらず、生きることに喜びを感じ、自分の隣人たちの役に立とうと必死に努力していたが、残念ながら死に追いやられたという者もいる」(S・イルベルク「ザクセンの精神病院における戦争中の患者の死亡率」1922年)。多くの精神病患者が戦争中に飢えによって死んだことは確かに痛ましいことだが、健康な人びとを後回しにして、彼ら、彼女らに食糧を与えることなどできなかったし、そもそも彼ら、彼女らが生きていること自体が、本人にとっても、周りの人間にとっても、何の利益にもなっていなかったのではないか、というのである。
 戦争がもたらした飢えは、平和時には存在しなかったか、少なくとも限りなく不可視化されていた分割線を可視化し、その線によって人口を二つに切り分け、一群の人びとを死の中に廃棄させる。だが、やがて人びとは、その選別の意味と合理性を事後的に再発見、あるいは再確認し、その分割線をさらに強化し始める。
 ドイツの敗戦直後の1919年、E・クレペリンは、次のように述べている。「決して愉快なものではないが、戦争という荒々しい暴力は、私たちのところにいる精神病患者の数を減少させるための手段を生み出した。生活物資のあらゆる輸送路が、慈悲のかけらもなく遮断された結果、周知のとおり、抵抗力のない人びとの罹患率は高まり、死亡率もあがった。このことは、他の誰よりも精神病院にいる人たちに見られ、その多くが飢餓水腫、結核、その他の病気になって死んでいった。経済的なお荷物である不治の精神病患者の数が今は減ったとしても、他方で、敵国がおこなった食糧封鎖が、健康にはマイナスなあらゆる影響に対する私たち国民の抵抗力を減退させることで、長期的なダメージを与えていく可能性は大いにありうる」(E・クレペリン「現代史に関する精神医学からの脚注」1919年) 。
 戦争は確かに残酷で、それによってドイツ人が長期的に被るダメージも少なくないが、そこにはまた、経済的なお荷物でしかない不治の精神病患者が社会から一掃されるという、すぐれて合理的な機能、しかし平和時には遂行不可能な機能があるのではないか、というわけだ。クレペリンは、戦争中の飢えがはからずも見えるようにしたこの合理性を、今後はより積極的、より意識的に機能させようとする。「戦争は、有能で自己犠牲的な男性たちを恐ろしいほど大量に死に追いやった。その反対に生き残ったのは、虚弱で自分のことしか考えないような連中である。しかし、戦争ばかりでなく、至る所で、弱者を支援し、困窮者、病弱者、堕落者を救助するという人間愛に満ちた行ないもまた、屈強な者の計画的な育成にいちじるしく逆行するものである。この人間愛は、私たちの未来がかかっている優秀な者たちの肩に、ますます大きくなる重荷を背負わせ、遂にはその者たちの活力を麻痺させてしまう。世界に存在するのは私たちだけでなく、私たちは他の民族(Volk)との熾烈な競争にさらされているのだから、私たちはこのような負担を無制限に広げるわけにはいかず、私たちの自己主張を妨げない程度に留めるべきなのである。冷酷かもしれないが、しかし、それが過酷な必然性であって、さもなければ、私たちの民族の良質な部分は低価値者によって滅びることになる」(クレペリン、同論文) 。
 ここに存在するのは、まさにフーコーの言う人種主義、より正確には生物学と進化論に支えられた人種主義に他ならないが、重要なのは、それが何を契機とし、どういう経緯で生み出され、見出されたのかである。一部の乱暴で横暴な連中が、突如「剣」を振り回して、生命の優秀な部分のさらなる発展を妨げる、社会のお荷物でしかない「低価値者」とされた人びとを、屠殺するがごとく、「死に至らしめ(faire mourir)」ようとしているのか。違う。彼らが何かを積極的にする前に、すでにその人びとの多くは、戦争中の飢えによって、誰もがなす術をもたない中で、死んでいったのである。約七万人の精神病患者が餓死していったのは、誰も何もできなかったからであり、誰かに何かができたのなら、そうはならなかっただろう──。人びとの死をそのように徹底して消極的に理解すること。その死の中にいかなる作為も見出さないこと。これこそが、生‐権力の「死の中への廃棄」、その「死ぬにまかせる(laisser mourir)」ことを根本で支えているのである。
 後にナチが実行する安楽死計画に、人は、ナチとヒトラーにふさわしい残忍さと非道さ──だが、その実体は人びとの隠された欲望の投影であり、人びとの方がナチに懇願して止まないものだということに注意せよ──を見出す。その認識はある意味で正しく、その正しさの理由については後述するが、しかし、この認識は、まさにその正しさによって、最も重要なことを見落としてしまう。それは、ナチの安楽死計画もまた、生‐権力である以上、人間の死を作為ではなく、不作為によってもたらそうとした、少なくともそのような理解にもとづいて実行された、ということである。

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市野川容孝「生‐権力再論──餓死という殺害」『現代思想』2007年9月号、78-99頁(上記の引用は93-5頁)