反ニーチェ (いたみとともに)

拙著『社会』(岩波書店、2006年、130-136頁)から、引用します。

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ニーチェ

 「子どもをもつことが犯罪とも言えるような場合がある。慢性疾患をもつ者、第3度の神経衰弱にある者の場合がそうだ。こういう場合に、人は何をしなければならないか?……社会は、生命について全権を委任された第一人者として、欠陥をもつ生命すべてに対し、それが生まれる前から責任を負っている。社会は、そのような生命に対して償いもしなければならない。だから、社会は、そのような生命が生まれないようにすべきなのだ。社会が生殖を阻止すべきケースは、実にたくさんある。その場合、社会は、家系や身分や教育の程度が何であろうと、最も厳しい強制措置、自由の剥奪、場合によっては去勢手術を、断行するつもりでいなければならない。《汝、殺すなかれ》という聖書の禁止は、頽廃者(デカダン)どもに対する《汝ら、子をなすなかれ》という生命の切実な禁止に比べれば、子ども騙しにすぎない。……生命は、有機体の健康な部分と、変質した部分の間に、いかなる連帯も認めないし、それらが《平等の権利》をもつことも認めない。変質した部分は切り捨てられるべきなのであり、さもなければ全体が死滅してしまう。頽廃者どもに同情すること、でき損ないの者たちにも平等の諸権利を認めることは、最も非道徳的なことであり、全く不自然な道徳である」(『力への意志』第734節)
 こう語るのは、1933年に「遺伝病子孫予防法」(断種法)を制定するヒトラーではない。1888年10月のニーチェ精神病者として入院する直前のニーチェである。同様の主張は、同年春から何度も繰り返される。「ツァラツストラによって示された、生命の至高の掟は、こう要求する。あらゆる生命のでき損ないや屑に同情してはならない。上昇していく生命にとって、ただ障害物、害毒、裏切り、地上での邪魔者にしかならないもの、一言でいえばキリスト教を抹殺せよ」(「遺された断想」『ニーチェ全集』白水社、第2期、第12巻、120頁)。「生命のでき損ないや屑に対しては、抹殺というただ一つの義務しかない」(同書、140頁)。すでにニーチェは1882年の『悦ばしき学問』(第73節)で、生まれたばかりの障害児を殺すことの正しさについて語っていたし、翌83年の『ツァラツストラ』第1部でも似たようなことを言っている。
 「貴族支配」を是とし、「社会学」を憎悪したニーチェはさらに、「欠陥をもつ生命」「でき損ないの生命」の「抹殺」を煽動しながら、再び平等と社会的なものの理念を否定する。ニーチェの言葉を何かの隠喩と思ってはならない。それは文字通りに解すべきであり、ニーチェは紛うことなき優生学者である。社会的なものの概念は、このニーチェと真正面から対決することなしには、擁護されえない。間違っているのは、社会的なものなのか、それともニーチェなのか。そして、ニーチェが間違っていると言うためには、社会的なものそれ自身が、どのようなものでなければならないのか。後者の問いは、特に重要である。というのも、この当時、社会的なものの側にいた人びとの大半が、ニーチェとほぼ同じことを考えていたからである(拙稿「社会的なものの概念と生命──福祉国家優生学」『思想』2000年2月号)。
 暫定的な答えを先に言う。間違っているのは、ニーチェである。なぜか。自分で自分の思想を裏切っているからである。
 上の断片と同じ時期に書かれ、『この人を見よ』「なぜ私はこんなに賢明なのか」の冒頭に収録される断片の中で、ニーチェはこう書いている。「私の父は36歳で死んだ。父はきゃしゃで、愛すべき人ではあったが病弱だった。ただこの世を通りすぎるためだけに生まれてきたような人だった。……父の生命が衰滅していったのと同じ年齢で、私の生命も衰滅した。36歳のとき、私の活力は底の底をついた。私はまだ生きていたが、三歩先も見えないほど視力が低下した。1879年に私はバーゼル大学の教授職を辞した」。
 子どもをもつことが犯罪であるような人間とは誰か。──自分だ、とニーチェは言っているのである。事実、自分は健康だと主張する傍らで、彼は認める。「私は頽廃者(デカダン)の一人である」(同)。ニーチェが、いかなる同情ももたず、ただ抹殺すべきだとした生命とは、ニーチェ自身なのである。実際、ニーチェがナチの時代に生きていたなら、彼は真っ先に断種の、さらに安楽死計画の対象になっただろう。しかも、そうなることをニーチェ自身が欲している。来世という観念によって現世での生の謳歌を不可能にしているとして、ニーチェキリスト教を徹底的に攻撃したけれども、ここに見られるニーチェの自虐性は、それ以上に歪んだ醜いものであり、ニーチェが同じく斥けたショーペンハウアのペシミズムよりも、はるかに陰鬱である。
 だが、このような自虐性だけではまだ、ニーチェが自分自身の思想を裏切っていると言うには足りない。ニーチェの誤謬は、彼が、このような自虐性の傍らで、生を全面的に肯定する、自分自身の「頽廃者」の生を含めて肯定する思想を展開する点にこそある。


永劫回帰と「勇気」

 各部の刊行年が少しずつずれているニーチェの『ツァラツストラ』には、その内部にいくかの切断がある。最も重要な切断は、いわゆる「永劫回帰」の思想が登場する第2部末尾「予言者」の前と後だろう。その前に属する第1部「子どもと婚姻について」で、確かにニーチェはこう言う。「君は若く、子どもと結婚を望んでいる。だが、私は君に尋ねる。君は、子どもを望んでよい人間なのか、と。……単に子どもをもつだけではだめだ。より優秀な子どもをもちたまえ」。優生学プロパガンダとしては最適の言葉だ。事実、多くの優生学者がニーチェを引用した。
 より良くなること。より高くなること。「生命」は、だから「常に自分自身を超克するもの」だとニーチェは言い、生命のこの上昇を支えるものを「力への意志」と表現する。「生命のあるところにのみ、意志もまた存在する。だが、君に教えよう。生への意志ではない。力への意志なのだ!」(第2部「自己超克について」)。ニーチェ優生学を支えるのも、この「力への意志」である。
 だが、ここで大きな転回がおこる。この「意志(Wille)」が永劫回帰の教えとともに棄却され、それと入れ代わりに「勇気(Mut)」が登場するのである。
 永劫回帰とは何か。それは生命の徹底した、あるいはその冷酷なまでの肯定である。「まことにわれわれは、死ぬことにも飽きた。さあ、目を覚まそう。そして生き続けよう。──墓場の中で!」(第2部「予言者について」)。この生の肯定とともに「意志」という言葉が失効する。「過ぎ去った人びとを救済し、すべての《そうであった》ものを《私がそれを欲した!》につくり変えること。そうして初めて、救済と呼ぶべきものが私に訪れるのだ!意志──それが人を自由にし、喜びをもたらすと、友たちよ、私は君たちにそう教えた。だが今や、それに加えて、次のことを学べ。意志そのものは、まだ捕らわれ人である。……意志は、すでになされたことに対して無力であり、過ぎ去ったものすべてについては悪しき傍観者にすぎない」(第2部「救済について」)。
 私はこのように生まれ、このようにしか生きられない。私はこの生をいささかも変えることができない。「意志」は、「力への意志」は、私に何ももたらさない。それでもなお、私がこの生を肯定するときに出来するもの、それが「勇気」である。あるいは「意志」が「勇気」として完成されるのである。「勇気は最強の殺し屋である。勇気は襲いかかり、そして死をも打ち殺す。そして、こう言う。《これが生きるということだったのか?よし!もう一度!》」(第3部「幻影と謎について」)。私は、この生を変えられない。だが、この生を微塵も変えることなく、何千回も、何万回も繰り返してみせよう。それが永劫回帰の教えであり、「勇気」である。こうして、「頽廃者」──それはニーチェ自身である──を含むすべての生命が「勇気」によって、肯定されるべきものとなる。ニーチェ優生学も、ここで打ち殺される。──本来ならば、である。
 「勇気」についてニーチェは、もう一つ重要なことを言っている。「勇気は同情することをも打ち殺す」(同)。同情、そして他者を気づかう心性は、社会的なものの基礎である。だが、ここでニーチェに降参する必要は少しもない。全く逆に、ニーチェとともに、同情や憐れみがもつ危うさを自覚的に打ち殺しながら、社会的なものを洗練すべきなのである。
 ニーチェがここで否定する同情の一つは、『新エロイーズ』のサン‐プルーが、天然痘にかかったジュリに対して示した憐れみである。「同情(Mitleid)」とは「ともに苦しむ(mit-leiden)」ことだが、サン‐プルーはジュリとともに天然痘に苦しみ、目まいのしそうな他人の近さの中で一緒に死のうとした。ニーチェが否定したのは、このような同情である。
 しかし、同情は、他者と同じになるために、自分に死を要求するだけではない。自分と同じにするために、他者に死を要求する。
 ナチの優生政策と安楽死計画を、ドイツの一精神科医として批判的に検証してきたクラウス・ドゥルナーは、その背後にあった人びとの心性を「死に至る憐れみ」という言葉で表現している。「何て可哀相な人」「何て気の毒な人」「何て惨めな人」──そういう深い同情とともに、「健康」な人びとは、自分たちと違う生命を大量に殺したのである。「病気のない社会、病気のない人間という理想に駆られつつ、多くの医師たちは(…)何としてでも目の前にいる人間を変えなければならないと考えた。その結果、何らかの治療を施しても病気のままの人は、不治だと宣告され、その人びとの病気は耐えがたいものであり、だから終わらせなければならない、ということになったのである。しかし、医師たちが抱いた憐れみの多くは、たいていの場合、自分への同情だったのであり、今でもそうである。目の前の病気や障害をそのまま受け入れることを、医師たちは屈辱と感じる。それは、自分の抱く健康な人間という像に反し、治療という自分たちの努力に逆行することだからである」(K・ドゥルナー『死に至る憐れみ』1989年、未邦訳)。
 目まいのしそうな他人の近さから抜け出て、自分とは異なる生を肯定し、同時に他人と同じではない、いや同じになれない自分を肯定すること。それを不可能にするような同情を打ち殺さないかぎり、社会的なものは自己と他者の双方に対して、死を要求し続けることになるのである。

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補足

 二点、補足します。2016年7月26日未明に「津久井やまゆり園」でなされた殺人には、障害者を対象としたヘイト・クライムという要素も確認でき、この事件を「死に至る憐れみ」という言葉だけで理解するのは、全く不十分だと思います(と同時に、この事件を「ヘイト・クライム」という言葉だけで理解するのも間違いだと思います)。それが一つ。
 もう一つ。現代思想は、ニーチェのこういう部分と、真剣に対決することを避けてきたと私は思います。フーコーフーコーに連なってきた人たちを含めて、です。