反ニーチェ (いたみとともに)

拙著『社会』(岩波書店、2006年、130-136頁)から、引用します。

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ニーチェ

 「子どもをもつことが犯罪とも言えるような場合がある。慢性疾患をもつ者、第3度の神経衰弱にある者の場合がそうだ。こういう場合に、人は何をしなければならないか?……社会は、生命について全権を委任された第一人者として、欠陥をもつ生命すべてに対し、それが生まれる前から責任を負っている。社会は、そのような生命に対して償いもしなければならない。だから、社会は、そのような生命が生まれないようにすべきなのだ。社会が生殖を阻止すべきケースは、実にたくさんある。その場合、社会は、家系や身分や教育の程度が何であろうと、最も厳しい強制措置、自由の剥奪、場合によっては去勢手術を、断行するつもりでいなければならない。《汝、殺すなかれ》という聖書の禁止は、頽廃者(デカダン)どもに対する《汝ら、子をなすなかれ》という生命の切実な禁止に比べれば、子ども騙しにすぎない。……生命は、有機体の健康な部分と、変質した部分の間に、いかなる連帯も認めないし、それらが《平等の権利》をもつことも認めない。変質した部分は切り捨てられるべきなのであり、さもなければ全体が死滅してしまう。頽廃者どもに同情すること、でき損ないの者たちにも平等の諸権利を認めることは、最も非道徳的なことであり、全く不自然な道徳である」(『力への意志』第734節)
 こう語るのは、1933年に「遺伝病子孫予防法」(断種法)を制定するヒトラーではない。1888年10月のニーチェ精神病者として入院する直前のニーチェである。同様の主張は、同年春から何度も繰り返される。「ツァラツストラによって示された、生命の至高の掟は、こう要求する。あらゆる生命のでき損ないや屑に同情してはならない。上昇していく生命にとって、ただ障害物、害毒、裏切り、地上での邪魔者にしかならないもの、一言でいえばキリスト教を抹殺せよ」(「遺された断想」『ニーチェ全集』白水社、第2期、第12巻、120頁)。「生命のでき損ないや屑に対しては、抹殺というただ一つの義務しかない」(同書、140頁)。すでにニーチェは1882年の『悦ばしき学問』(第73節)で、生まれたばかりの障害児を殺すことの正しさについて語っていたし、翌83年の『ツァラツストラ』第1部でも似たようなことを言っている。
 「貴族支配」を是とし、「社会学」を憎悪したニーチェはさらに、「欠陥をもつ生命」「でき損ないの生命」の「抹殺」を煽動しながら、再び平等と社会的なものの理念を否定する。ニーチェの言葉を何かの隠喩と思ってはならない。それは文字通りに解すべきであり、ニーチェは紛うことなき優生学者である。社会的なものの概念は、このニーチェと真正面から対決することなしには、擁護されえない。間違っているのは、社会的なものなのか、それともニーチェなのか。そして、ニーチェが間違っていると言うためには、社会的なものそれ自身が、どのようなものでなければならないのか。後者の問いは、特に重要である。というのも、この当時、社会的なものの側にいた人びとの大半が、ニーチェとほぼ同じことを考えていたからである(拙稿「社会的なものの概念と生命──福祉国家優生学」『思想』2000年2月号)。
 暫定的な答えを先に言う。間違っているのは、ニーチェである。なぜか。自分で自分の思想を裏切っているからである。
 上の断片と同じ時期に書かれ、『この人を見よ』「なぜ私はこんなに賢明なのか」の冒頭に収録される断片の中で、ニーチェはこう書いている。「私の父は36歳で死んだ。父はきゃしゃで、愛すべき人ではあったが病弱だった。ただこの世を通りすぎるためだけに生まれてきたような人だった。……父の生命が衰滅していったのと同じ年齢で、私の生命も衰滅した。36歳のとき、私の活力は底の底をついた。私はまだ生きていたが、三歩先も見えないほど視力が低下した。1879年に私はバーゼル大学の教授職を辞した」。
 子どもをもつことが犯罪であるような人間とは誰か。──自分だ、とニーチェは言っているのである。事実、自分は健康だと主張する傍らで、彼は認める。「私は頽廃者(デカダン)の一人である」(同)。ニーチェが、いかなる同情ももたず、ただ抹殺すべきだとした生命とは、ニーチェ自身なのである。実際、ニーチェがナチの時代に生きていたなら、彼は真っ先に断種の、さらに安楽死計画の対象になっただろう。しかも、そうなることをニーチェ自身が欲している。来世という観念によって現世での生の謳歌を不可能にしているとして、ニーチェキリスト教を徹底的に攻撃したけれども、ここに見られるニーチェの自虐性は、それ以上に歪んだ醜いものであり、ニーチェが同じく斥けたショーペンハウアのペシミズムよりも、はるかに陰鬱である。
 だが、このような自虐性だけではまだ、ニーチェが自分自身の思想を裏切っていると言うには足りない。ニーチェの誤謬は、彼が、このような自虐性の傍らで、生を全面的に肯定する、自分自身の「頽廃者」の生を含めて肯定する思想を展開する点にこそある。


永劫回帰と「勇気」

 各部の刊行年が少しずつずれているニーチェの『ツァラツストラ』には、その内部にいくかの切断がある。最も重要な切断は、いわゆる「永劫回帰」の思想が登場する第2部末尾「予言者」の前と後だろう。その前に属する第1部「子どもと婚姻について」で、確かにニーチェはこう言う。「君は若く、子どもと結婚を望んでいる。だが、私は君に尋ねる。君は、子どもを望んでよい人間なのか、と。……単に子どもをもつだけではだめだ。より優秀な子どもをもちたまえ」。優生学プロパガンダとしては最適の言葉だ。事実、多くの優生学者がニーチェを引用した。
 より良くなること。より高くなること。「生命」は、だから「常に自分自身を超克するもの」だとニーチェは言い、生命のこの上昇を支えるものを「力への意志」と表現する。「生命のあるところにのみ、意志もまた存在する。だが、君に教えよう。生への意志ではない。力への意志なのだ!」(第2部「自己超克について」)。ニーチェ優生学を支えるのも、この「力への意志」である。
 だが、ここで大きな転回がおこる。この「意志(Wille)」が永劫回帰の教えとともに棄却され、それと入れ代わりに「勇気(Mut)」が登場するのである。
 永劫回帰とは何か。それは生命の徹底した、あるいはその冷酷なまでの肯定である。「まことにわれわれは、死ぬことにも飽きた。さあ、目を覚まそう。そして生き続けよう。──墓場の中で!」(第2部「予言者について」)。この生の肯定とともに「意志」という言葉が失効する。「過ぎ去った人びとを救済し、すべての《そうであった》ものを《私がそれを欲した!》につくり変えること。そうして初めて、救済と呼ぶべきものが私に訪れるのだ!意志──それが人を自由にし、喜びをもたらすと、友たちよ、私は君たちにそう教えた。だが今や、それに加えて、次のことを学べ。意志そのものは、まだ捕らわれ人である。……意志は、すでになされたことに対して無力であり、過ぎ去ったものすべてについては悪しき傍観者にすぎない」(第2部「救済について」)。
 私はこのように生まれ、このようにしか生きられない。私はこの生をいささかも変えることができない。「意志」は、「力への意志」は、私に何ももたらさない。それでもなお、私がこの生を肯定するときに出来するもの、それが「勇気」である。あるいは「意志」が「勇気」として完成されるのである。「勇気は最強の殺し屋である。勇気は襲いかかり、そして死をも打ち殺す。そして、こう言う。《これが生きるということだったのか?よし!もう一度!》」(第3部「幻影と謎について」)。私は、この生を変えられない。だが、この生を微塵も変えることなく、何千回も、何万回も繰り返してみせよう。それが永劫回帰の教えであり、「勇気」である。こうして、「頽廃者」──それはニーチェ自身である──を含むすべての生命が「勇気」によって、肯定されるべきものとなる。ニーチェ優生学も、ここで打ち殺される。──本来ならば、である。
 「勇気」についてニーチェは、もう一つ重要なことを言っている。「勇気は同情することをも打ち殺す」(同)。同情、そして他者を気づかう心性は、社会的なものの基礎である。だが、ここでニーチェに降参する必要は少しもない。全く逆に、ニーチェとともに、同情や憐れみがもつ危うさを自覚的に打ち殺しながら、社会的なものを洗練すべきなのである。
 ニーチェがここで否定する同情の一つは、『新エロイーズ』のサン‐プルーが、天然痘にかかったジュリに対して示した憐れみである。「同情(Mitleid)」とは「ともに苦しむ(mit-leiden)」ことだが、サン‐プルーはジュリとともに天然痘に苦しみ、目まいのしそうな他人の近さの中で一緒に死のうとした。ニーチェが否定したのは、このような同情である。
 しかし、同情は、他者と同じになるために、自分に死を要求するだけではない。自分と同じにするために、他者に死を要求する。
 ナチの優生政策と安楽死計画を、ドイツの一精神科医として批判的に検証してきたクラウス・ドゥルナーは、その背後にあった人びとの心性を「死に至る憐れみ」という言葉で表現している。「何て可哀相な人」「何て気の毒な人」「何て惨めな人」──そういう深い同情とともに、「健康」な人びとは、自分たちと違う生命を大量に殺したのである。「病気のない社会、病気のない人間という理想に駆られつつ、多くの医師たちは(…)何としてでも目の前にいる人間を変えなければならないと考えた。その結果、何らかの治療を施しても病気のままの人は、不治だと宣告され、その人びとの病気は耐えがたいものであり、だから終わらせなければならない、ということになったのである。しかし、医師たちが抱いた憐れみの多くは、たいていの場合、自分への同情だったのであり、今でもそうである。目の前の病気や障害をそのまま受け入れることを、医師たちは屈辱と感じる。それは、自分の抱く健康な人間という像に反し、治療という自分たちの努力に逆行することだからである」(K・ドゥルナー『死に至る憐れみ』1989年、未邦訳)。
 目まいのしそうな他人の近さから抜け出て、自分とは異なる生を肯定し、同時に他人と同じではない、いや同じになれない自分を肯定すること。それを不可能にするような同情を打ち殺さないかぎり、社会的なものは自己と他者の双方に対して、死を要求し続けることになるのである。

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補足

 二点、補足します。2016年7月26日未明に「津久井やまゆり園」でなされた殺人には、障害者を対象としたヘイト・クライムという要素も確認でき、この事件を「死に至る憐れみ」という言葉だけで理解するのは、全く不十分だと思います(と同時に、この事件を「ヘイト・クライム」という言葉だけで理解するのも間違いだと思います)。それが一つ。
 もう一つ。現代思想は、ニーチェのこういう部分と、真剣に対決することを避けてきたと私は思います。フーコーフーコーに連なってきた人たちを含めて、です。

NHK・ETV特集『それはホロコーストのリハーサルだった』(初回放送・2015年11月7日、再放送・2015年11月14日)に関連して

私の知る限りで、2点、情報を補足させていただきます。


【1】 映画『私は訴える』(1941年)について

 ナチの安楽死計画は1941年8月末に「中止」されますが、この映画は、それと入れ代わりに、ナチ政府が一般のドイツ国民にこの計画の必要性を理解させるために製作・公開したものです。ナチのプロパガンダ映画ということもあって、ドイツ国内では視聴が難しかったと記憶していますが、今では、英語字幕付のDVDがアマゾン等で購入できます:
https://www.amazon.co.jp/Ich-Klage-I-Accuse-DVD/dp/B008D66JVC

以下、この映画に関する私の簡単な解説を貼り付けます。

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 最後に、ある映画をご紹介したいと思います。そのストーリーは、ナンシー・クルーザンさんに関する番組と共通するところも多いのですが、まずはその映画の粗筋をご紹介します。
 映画の主な登場人物は、病理学者のトーマス・ハイト、その妻のハナ、そしてトーマスの友人であり、ハナの主治医である医師ベルンハルト・ラングの三人です。
 トーマスは、ベルンハルト・ラングから、妻のハナが多発性硬化症におかされていると知らされます。多発性硬化症は神経疾患の一つで、30歳前後で最も多く発症すると言われています。多発性(multiple)というのは、いろいろな症状が出るという意味ですが、視覚障害、歩行障害、手足のしびれや運動麻痺といった症状が見られます。映画の中ではハナが、足を躓いたり、手がしびれてピアノが途中で弾けなくなったり、また目が見えにくくなったりします。
 トーマスは深いショックを受けながらも、ハナの治療のため新薬の開発に努めますが、何の成果もえられません。自分が不治の病であることを知らされたハナは、トーマスにこう訴えます。「私が最後の瞬間まで、あなたのハナでいられるように助けてちょうだい。あなたの知らないハナ、耳も聞こえず、話しもできず、白痴になったハナでは絶対にいや。そんなこと私には耐えられない。……そうなる前にあなたは私を救ってくれると約束して、トーマス。そうするのよ、トーマス。私を本当に愛しているのなら、そうするのよ」。そして、トーマスはハナに致死薬を与え、ハナは死にます。
 いかなる場合でも延命につくすことが医師の責務であると考えるラングは、そのことを知り、トーマスを激しく叱責します。しかし、ラング自身、ある出来事をきっかけに、自分のそうした考えに疑問を抱き始めます。ラングは自分が以前に何とか一命をとりとめさせたある子どもの母親から手紙を受け取ります。そこには「私たちを助けることができるのはあなただけです」と書かれていました。ラングは往診のため、その両親の家を訪ねるのですが、そこには子どもはいません。ラングが子どもはどこかと尋ねると、父親は無愛想にこう答えます。「子どもはどこかですって?――施設ですよ。目は見えないし、何も聞こえやしない。おまけに全くの知恵遅れだ。そうそう、あなたは見事に治してくれましたよ、ねえ先生。哀れな子を安らかに死なせてくれる代わりにね」。ラングは「助けてくれ」という母親の訴えが、施設にいる自分の子どもを安らかに死なせてやってくれ、という意味であることをそこで初めて悟ります。
 一方、トーマス・ハイトは、ハナのお兄さんの訴えがもとで、殺人罪で裁判にかけられます。トーマスの弁護人は、ハナの死は多発性硬化症による自然死であり、トーマスは無実だと弁明するつもりでおり、ラングもそう証言することによって友人を救おうと考えます。しかし、ラスト・シーンで被告のトーマスは、法廷で自ら次のように訴えます。映画の脚本をそのまま引用します。

>>裁判長(苛立ちながら)「ベッカー医務参事官は、ハイト教授の投与した致死薬が効き始める前に、呼吸中枢に生じた硬化病巣によって死がもたらされた可能性もあると証言しました。(急き立てながら)あなたもその可能性を認めますか?(……)ハナ・ハイト夫人の病状に関するあなたの所見からすれば、この両方が原因で彼女が死亡したというということはありえますか?」ラング医師、沈黙。裁判長は答えを待つ。
ハイト(興奮して身を乗り出す)「ラング氏は私の妻が死亡する二時間前に、妻はまだ二ヵ月生き長らえるとおっしゃっていました。しかも、その診断は客観的に見て、ゆるぎないものだ、と」。(裁判長と検事、互いに驚いて顔を見合わせる。)
弁護人(あわてて小声でささやく)「あなたは自分の無罪を棒にふる気ですか、ハイト教授!」
ハイト(立ち上がり、堂々と話し始める。早口で)「弁護士さん、わかっています。しかし、私はもう黙っていることはできない!私はもう何も怖くない。人びとに轍を残そうとする者は、先陣を切らねばならない。私は自分が被告だとも、もう思っていません。なぜなら、私は自分のしたことによって、私にとって最も大切な存在を失うという罰をすでに受けたからです。(厳しい口調になりながら)いいや、私は被告なんかじゃない!私の方こそ告訴します!私は、人民に奉仕するという役目を医師と、そして裁判官がまっとうすることを妨げている条文を告訴します。だから私は、私のしたことをもみ消そうなどとも思っていません。私は自分で自分を裁きます!(ほとんど叫び声になりながら)なぜなら、どんな結果になろうとも、これは警告となり、人びとを眠りから覚ます呼び声となるのだから!(静かに)真実を告白します。私は不治の病にあった自分の妻を彼女の望みによって、その苦しみから解放したのです。私の今の人生は彼女の決定に捧げられています。そして、その決定は、妻と同じ運命に会うかもしれないすべての人間にもあてはまるのです。(頭を垂れながら、消え入るような声で)判決をお願いします」。<<

 この映画の題名は『私は訴える(Ich klage an)』と言います。自分は、多発性硬化症におかされた妻の望みにしたがって、彼女に積極的安楽死をおこなったが、それを殺人罪に問う今の法律を、私の方が訴える、というトーマス・ハイトの主張を一言でまとめた題名です。
 映画の中でトーマスがハナにしたことは、ナンシー・クルーザンさんに対してなされたことと異なります。しかし、トーマスのこの訴えは、ナンシーさんのお父さんが彼女のベッドの傍らで読み上げた声明に通ずるものがあるでしょう。どちらも、死なせてあげることが本人のためであり、本人もそれを望んでいたのだという主張です。
 しかし、問題は、この映画がいつ、どこで、どういう目的で制作され、上映されたのか、です。
 この映画は1941年にドイツで制作され、上映されました。その時のドイツでは、どういうことが行なわれていたでしょうか。第3章でベンノ・ミュラーヒルさんが述べていたことを思い出してください。
ドイツでは、1939年9月1日付のヒトラーの命令書にもとづいて、安楽死計画が開始されました。しかし、ヒトラーは1941年8月24日にこの安楽死計画について口頭で中止命令を出します。なぜか。カトリック教会を中心として、強い抗議と非難が向けられたからです。安楽死計画は秘密裏に実施されましたが、何万人もの大人や子どもが殺されたわけですから、隠しおおせることはできませんでした。
 実際にはこの中止命令後も安楽死計画は1945年まで続けられたのですが、ナチ政府は、この中止命令と入れ代わりに、安楽死計画の必要性をドイツ国民に理解させるための宣伝政策に力を注ぎます。その一つとして制作・上映されたのが、この『私は訴える』という映画なのです。この映画は1940年から制作が開始されましたが、それが完成してベルリンで初上映されたのは1941年8月29日、安楽死計画の中止命令の直後です。
 他にもいろいろなプロパガンダ映画が制作され、その中には施設で暮らす障害のある人たちを故意に惨めに描き、そういう人たちは生きるに値しないのだというメッセージを、観る者にストレートに伝えようとするものもありましたが、「私は訴える」という映画はそうではありません。あくまでハナの望みにもとづいて、夫のトーマスが彼女を死に至らしめ、そして罪に問われる、という人間ドラマと悲劇が中心です。
 ナチの宣伝相だったヨーゼフ・ゲッベルスは、「最良のプロパガンダは間接的に機能する」という考えを信条にしていたと言われます。つまり、大衆の心に何かをメッセージとして深く根づかせて、受け入れさせたいと思うなら、それをストレートに伝えてはダメだ、あくまで間接的に伝えなければならない、ということです。『私は訴える』もゲッベルスのそうした考えにそったものでした。
 ナチ政府が実際におこなったことは、この映画で描かれたこととは全く異なります。ナチの安楽死計画は、本人の意思にもとづいて、人びとを死に至らしめたわけでは全くありません。第二次大戦が始まり、全面戦争を遂行する上で足手まといとなるとされた人たちを、本人の意思にもとづくどころか、その家族にも何も知らせず、死に至らしめていたのです。
にもかかわらず、ナチ政府は、この安楽死計画の必要性を、たとえばこの『私は訴える』という映画を通じて、人びとに間接的に伝え、受け入れさせようとした。このプロパガンダによって、プロパガンダとはある意味で真逆のことを受け入れさせようとした。
 ナンシー・クルーザンさんの番組を紹介するとき、私はいつもこの『私は訴える』を同時に紹介することにしています。なぜなら、ナンシーさんの番組もまた、間接的に機能する最良のプロパガンダになりうるからです。

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鈴木晃仁編、深津武馬・市野川容孝著『対話 共生』慶應義塾大学出版会、2013年、236-242頁。
文中冒頭の「ナンシー・クルーザンさんに関する番組」は、The Death of Nancy Cruzan(1992年3月24日放映):
http://www.pbs.org/wgbh/pages/frontline/programs/transcripts/1014.html です。


【2】 第一次大戦中の大量餓死

 ナチの安楽死計画は、その約20年前の第一次大戦中のドイツ国内の精神病患者等の大量餓死とつなげて考えなければ、正確には理解できません。以下、拙稿から引用します。

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 第一次大戦中、ドイツ国内の精神病院では、約七万人の精神病患者が飢えと栄養失調で死亡している 。K・ドゥルナーによれば、この数は、ナチの安楽死計画によって1941年以降に殺害された精神病患者の数にほぼ等しい 。
 第一次大戦のこの痛ましい状況を、当時のドイツの精神科医たちは、どのように見ていたのか。ある精神科医は、次のように述べている。「戦争中の精神病院における非常に高い死亡率に目を向けるならば、私たちの罪のない患者たちがおちいった、かくも多くの死の犠牲は、もちろん痛ましいものとして深い同情を寄せるべきである。……しかし、いずれにしても、健康な人たち以上に多くの食糧を精神病患者に与えることは不可能だったし、許されることでもなかった。戦争中に犠牲になった者の多くは、その生命が自分にとっても、他人にとっても何の利益にならない、そういう人たちだった。それは確かだけれども、中には、病気にもかかわらず、生きることに喜びを感じ、自分の隣人たちの役に立とうと必死に努力していたが、残念ながら死に追いやられたという者もいる」(S・イルベルク「ザクセンの精神病院における戦争中の患者の死亡率」1922年)。多くの精神病患者が戦争中に飢えによって死んだことは確かに痛ましいことだが、健康な人びとを後回しにして、彼ら、彼女らに食糧を与えることなどできなかったし、そもそも彼ら、彼女らが生きていること自体が、本人にとっても、周りの人間にとっても、何の利益にもなっていなかったのではないか、というのである。
 戦争がもたらした飢えは、平和時には存在しなかったか、少なくとも限りなく不可視化されていた分割線を可視化し、その線によって人口を二つに切り分け、一群の人びとを死の中に廃棄させる。だが、やがて人びとは、その選別の意味と合理性を事後的に再発見、あるいは再確認し、その分割線をさらに強化し始める。
 ドイツの敗戦直後の1919年、E・クレペリンは、次のように述べている。「決して愉快なものではないが、戦争という荒々しい暴力は、私たちのところにいる精神病患者の数を減少させるための手段を生み出した。生活物資のあらゆる輸送路が、慈悲のかけらもなく遮断された結果、周知のとおり、抵抗力のない人びとの罹患率は高まり、死亡率もあがった。このことは、他の誰よりも精神病院にいる人たちに見られ、その多くが飢餓水腫、結核、その他の病気になって死んでいった。経済的なお荷物である不治の精神病患者の数が今は減ったとしても、他方で、敵国がおこなった食糧封鎖が、健康にはマイナスなあらゆる影響に対する私たち国民の抵抗力を減退させることで、長期的なダメージを与えていく可能性は大いにありうる」(E・クレペリン「現代史に関する精神医学からの脚注」1919年) 。
 戦争は確かに残酷で、それによってドイツ人が長期的に被るダメージも少なくないが、そこにはまた、経済的なお荷物でしかない不治の精神病患者が社会から一掃されるという、すぐれて合理的な機能、しかし平和時には遂行不可能な機能があるのではないか、というわけだ。クレペリンは、戦争中の飢えがはからずも見えるようにしたこの合理性を、今後はより積極的、より意識的に機能させようとする。「戦争は、有能で自己犠牲的な男性たちを恐ろしいほど大量に死に追いやった。その反対に生き残ったのは、虚弱で自分のことしか考えないような連中である。しかし、戦争ばかりでなく、至る所で、弱者を支援し、困窮者、病弱者、堕落者を救助するという人間愛に満ちた行ないもまた、屈強な者の計画的な育成にいちじるしく逆行するものである。この人間愛は、私たちの未来がかかっている優秀な者たちの肩に、ますます大きくなる重荷を背負わせ、遂にはその者たちの活力を麻痺させてしまう。世界に存在するのは私たちだけでなく、私たちは他の民族(Volk)との熾烈な競争にさらされているのだから、私たちはこのような負担を無制限に広げるわけにはいかず、私たちの自己主張を妨げない程度に留めるべきなのである。冷酷かもしれないが、しかし、それが過酷な必然性であって、さもなければ、私たちの民族の良質な部分は低価値者によって滅びることになる」(クレペリン、同論文) 。
 ここに存在するのは、まさにフーコーの言う人種主義、より正確には生物学と進化論に支えられた人種主義に他ならないが、重要なのは、それが何を契機とし、どういう経緯で生み出され、見出されたのかである。一部の乱暴で横暴な連中が、突如「剣」を振り回して、生命の優秀な部分のさらなる発展を妨げる、社会のお荷物でしかない「低価値者」とされた人びとを、屠殺するがごとく、「死に至らしめ(faire mourir)」ようとしているのか。違う。彼らが何かを積極的にする前に、すでにその人びとの多くは、戦争中の飢えによって、誰もがなす術をもたない中で、死んでいったのである。約七万人の精神病患者が餓死していったのは、誰も何もできなかったからであり、誰かに何かができたのなら、そうはならなかっただろう──。人びとの死をそのように徹底して消極的に理解すること。その死の中にいかなる作為も見出さないこと。これこそが、生‐権力の「死の中への廃棄」、その「死ぬにまかせる(laisser mourir)」ことを根本で支えているのである。
 後にナチが実行する安楽死計画に、人は、ナチとヒトラーにふさわしい残忍さと非道さ──だが、その実体は人びとの隠された欲望の投影であり、人びとの方がナチに懇願して止まないものだということに注意せよ──を見出す。その認識はある意味で正しく、その正しさの理由については後述するが、しかし、この認識は、まさにその正しさによって、最も重要なことを見落としてしまう。それは、ナチの安楽死計画もまた、生‐権力である以上、人間の死を作為ではなく、不作為によってもたらそうとした、少なくともそのような理解にもとづいて実行された、ということである。

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市野川容孝「生‐権力再論──餓死という殺害」『現代思想』2007年9月号、78-99頁(上記の引用は93-5頁)

ケアのもう一つの社会学 (市野川容孝)

※『atプラス』08号(2011年5月刊行)143-153頁に掲載。


 「ケアの社会学入門」という特集を組んだ本誌07号の批評をせよ、と編集部から依頼されてから間もない2011年3月11日に、東日本大震災がおきた。
4月11日現在で、死者は13,013名、行方不明者は14,608名と伝えられている。両者の合計は27,621名にのぼり、1995年の阪神・淡路大震災の死者(約6,500名)の4倍をこえている。加えて、約15万の人びとが避難生活を余儀なくされている。特別養護老人ホームの高齢者とそこで働くヘルパーが、数十名、そのまま津波にのみこまれ、死亡、行方不明になったケースも、いくつか報道されている。
 本誌07号の特集で論じられていたケアは、高齢者や障害者にかかわる介護や介助に限定されていた。しかし、3月11日を経験した現在、ケアという言葉は、もっと広い文脈と射程において考えられるべきものに(再び)なったと私は思う。

◆ 誰もが要介護者である

 東日本大震災をめぐって四つのことを述べながら、ケアの射程を少し思い切って広げることから始めたい。
 まず第一に、この大震災において(も)明らかとなったのは、健常者とされている人びともまた、潜在的には、みな要介護者だということだ。
 当たり前のことだが、自分だけの力で生きている、というのは、全くの幻想である。蛇口をひねれば、水が出る。スイッチを入れれば、電気がつき、ガスがつく。そういう当たり前の生活は、自分以外の多くの他者の配慮(ケア)によって支えられている。自分で井戸を掘って水を調達したり、自分で電気をおこしたり、自分でガスを採掘したり、ということを、全部一人でやっている人は、存在しないだろう。水を調達する人たちも、誰かに電気をつくってもらって、それを使い、電気をつくる人たちも、誰かにガスをつくって、それを使う。そして、私たちの大半は、そのどれもせず、別のことをして生きているが、これらの配慮がなければ、私たちは生きていけない。いわゆるライフライン──英語由来のこのカタカナ日本語が広まったのも、阪神・淡路大震災以降のことだ──の話をしているのだが、これらの配慮なしに生活が成り立たないという意味で、私たちはみなケアを必要とする要介護者と言ってよい。大震災は、これらの自明視されたケアの構造を大規模に破壊した。健常者がみな、この意味で要介護者であることが顕在化し、だから被災者に対するこれまでとは別の形の配慮と支援が、今、強く求められているのである。
 careという英語に相当するラテン語はcuraであり、それに「〜がない」という意味のse-という接頭辞が付いてsecuritasとなり、これを語源としてsecurity(安全性)という英語が生まれた。セキュリティは、だからケアの不在を意味するが、正確には、ケアがあるのに、それが不可視化されている状態と言うべきだろう。大震災によって、既存のセキュリティの構造は、様々な意味で破壊された。しかし他方で、この痛ましい出来事は、平時において自明視され不可視化されていたケアが何であったかを、喪失という形で可視化した。

◆ 災害がひらくケア

 しかし、第二に、大震災が可視化したのは、自明視されてきたがゆえに不可視化されてきたケアの構造ばかりではない。その自明視された平時のケアの構造によって封じ込められてきたケアの別の可能性が開かれ、可視化されもしたのである。
 昨年末に邦訳されたレベッカ・ソルニットの『災害ユートピア』(高月園子訳、亜希書房、2010年)は、何よりもまず、「地震、爆撃、大嵐などの直後には、緊迫した状況の中で誰もが利他的になり、自身や身内のみならず、隣人や見も知らぬ人びとに対してさえ、まず思いやりを示す」という基本的事実を強調する(同書、11頁)。平時においては、相互に切り離され、互いに無関心であった人びとが、災害の中で互いに助け合い、支えあう。
 東日本大震災の後に、今、私たちが直面している課題も、そういうことだ。本誌07号に寄稿していた中西正司を代表として「東北関東大震災東北地方太平洋沖地震)障害者救援本部」が、震災直後の3月14日に立ち上げられたが、こうした支援の輪を一つ一つ分厚くしていくことが必要だし、誰もがその輪に対して自分のできることをすべきだろう。いや、すべきなのではない。単純にできるのだから、すればよいのである。
 災害という経験をつぶさに見続けることで生まれた「ケアの社会学」の流れが日本にもある。その一つは、似田貝香門を中心に1995年から始められた阪神・淡路大震災のボランティアに関する共同調査から生まれたもので、似田貝香門編『自立支援の実践知──阪神・淡路大震災と共同・市民社会』(東信堂、2008年)の他にも、共同調査に参加した若い社会学者たちが、対象を災害のみならず、医療や福祉に広げながら、三井さよ『ケアの社会学──臨床現場との対話』(勁草書房、2004年)、崎山治男他編『〈支援〉の社会学』(青弓社、2008年)、佐藤恵『自立と支援の社会学──阪神大震災とボランティア』(東信堂、2010年)といった仕事を世に問うている。これらのケアの社会学から今、私たちが学べることは多いはずだ。

◆ ケアの収奪としてのセキュリティ──原発災害

 第三は、今回の震災を他の震災と全く異なるものにしている原発問題である。
 福島原発の現状について、東電、官邸、原子力安全・保安院、そして原子力安全委員会が連日発表している情報の真偽を見定められるほど、私は自然科学に通じていない。原子力資料情報室等のNGOが発信している情報と突き合わせて思案するのが関の山だ。だから、政府筋の情報が虚偽だとか、事実を隠蔽していると言えるような立場にはないし、言うつもりもない。
 しかし、安全性という装置について、多少は社会科学的な考察を加えておきたいと思う。セキュリティは、語義的にはケアの不在を意味するけれども、安全性という言葉を軸に編成される現実の社会制度において、様々な配慮(ケア)は決して消滅しない。その逆であって、むしろ肥大する。誰もが安心して暮らせる社会は、一定の人びとが担う大きな配慮なしには成立しない。その延長線上で、安全性の装置で往々にして生じるのは、ケアの消滅ではなく、ケアの収奪とその集中、独占である。先ほど私は、セキュリティを、ケアがあるのに、それが不可視化されている状態と表現したが、これに続く二番目の意味は、誰かが把持して然るべきケアが、誰かにに剥奪される状態であり、その意味でケアが消滅させられる状態である。
 『災害ユートピア』の中で、レベッカ・ソルニットは「エリートパニック」という災害学の概念に言及している。災害時にパニックになるのは(無知とされた)普通の人びとはなく、エリートの方だという意味である。この言葉をつくったリー・クラークは、次のように言う。「エリートパニックがユニークなのは、それが一般の人びとがパニックになると思って引き起こされる点です。ただ、彼らがパニックになることは、わたしたちがパニックになるより、ただ単にもっと重大です。なぜなら、彼らには権力があり、より大きな影響を与えられる地位にあるからです。彼らは立場を使って情報資源を操れるので、手の内を明かさないでいることもできる。それは統治に対する非常に家長的な姿勢です。子どもを扱うのと同じ」(同書、175頁)。
 本当のことを伝えたら、無知な一般人はパニックに陥るに違いないという思い込みにもとづいて、一般人を子ども扱いし、すべては私たちエリートがコントロールすればよいと考えて、結果的にもっと深刻な事態をひきおこすエリートパニックは、一般人から心配(ケア)する能力を収奪する結果、生じるものでもあるだろう。
 「どんな地震でも、原発は絶対に安全です」という一部の専門家の言葉に支えられた安全性の装置の中で、私たちは自分たち自身が把持すべきケアをすでに喪失していた。震災と津波によって引き起こされた福島原発の危機的状況そのものが、すでにエリートパニックの一つだと言えるかもしれない。
 事態をもう少し別の言葉で表現しよう。『リスクの社会学』の第6章で、社会学者のニクラス・ルーマンは「決定する者(Entscheider)」と「決定に巻き込まれる者(Betroffene)」という対概念を提示している。この対概念は、「危険」と「リスク」というもう一つの対概念と連動する。「リスク」とは、ルーマンによれば、あるシステムのなす決定に帰責される事象であるのに対して、「危険」とは外部の環境世界に帰責される事象である。つまり、天災は危険であり、人災はリスクである。原発災害が人災であり、リスクであることは明らかだ。しかし、すべての人が原発の建設やその具体的な設計等の決定に参与していたわけではない。にもかかわらず、一部の人たちの決定は、決定に参与していない多くの人たちを巻き込む。決定した者にとって、原発災害は自分たち自身がコントロールすべき(だった)リスクだが、決定に巻き込まれる人たちにとって、それは天災であり、自分たちにはどうすることもできない危険である。決定する者と決定に巻き込まれる者という分割は、心配(ケア)する能力の剥奪と独占という不均衡に重なり合う。
 そして、異議申立て(プロテスト)とは、他の人びとの決定とそれがもたらす危険に巻き込まれる人たちが、そのことを自覚しつつ、その決定に対してノーという新たな決定を対置する営みである。それは、安全性の装置の中で奪われた自身のケアの力を取り戻すということでもあるだろう。

◆ ケアの閉塞とそこからの排除

 レベッカ・ソルニットの『災害ユートピア』に、これまで肯定的に言及してきた。しかし、最後に第四として、災害ユートピアという図式には収まりきらない現象もまた、災害によって引き起こされると私は思う。
 災害時において、平時には見られないケアや支援の可能性が開かれるということ、利他心が個人のエゴイズムを凌駕していくということが事実だとしても、その利他心が集団的なエゴイズムや排外主義に転化していくことがありうる。
 私たちが想起しなければならないのは、関東大震災(1925年)における朝鮮人虐殺と、大杉栄伊藤野枝らの殺害である。ソルニットも『災害ユートピア』(119頁)で、この日本の出来事に言及しており、これを先のエリートパニックの一つととらえているようだが、その理解で十分かどうか、私は疑問に思う。
 4月12日付の読売新聞に、被災者のこんな話が載っていた。福島県いわき市在住のその女性(35歳)は、原発事故後の20日間、東京と神奈川の親戚宅に身を寄せていたが、子どもを避難先の地区の小学校に通わせることに不安を覚え、いわき市の自宅に戻ってきたという。「何が不安かというと、福島県から来たというだけで子どもたちが差別を受けるのではないかということです。福島県民は放射能に汚染されたと思われているのでしょうか。神奈川に避難した知人の子は『福島くん』とあだ名をつけられました。(中略)いわれなき差別が起こらないようにと願っています」。エリートが「まだ安全だ」と言い、一般人が「本当は危ない」と思うことで生ずる他者への暴力もありうる。
 災害時に充溢する人びとのケアの力が、その後、時とともに収縮していくという問題もある。ソルニットも、問題は災害ユートピアを平時にも維持できるかどうかだと指摘する。「災害はわたしたちに別の社会を垣間見せさせてくれるかもしれない。だが、問題は、災害の前や過ぎ去ったあとに、それを利用できるかどうか、そういった欲求と可能性を平常時に認識し、実現できるかどうかだ」(『災害ユートピア』431頁)。
 医師の額田勲は、阪神・淡路大震災後の復興の中で増え続けた高齢者の「孤独死」を問題視し続けた(『孤独死──被災地神戸で考える人間の復興』岩波書店、1999年)。震災は、モノを壊すだけではない。それまでの人の人のつながりをも壊しうる。そういうつながりを喪失し、生きる希望を失った高齢者が、一見、輝かしい復興の中で、暗い穴の中へと打ち捨てられていく理不尽さを、額田は告発し続けたが、それと同じようなことが、今回の東日本大震災の後におこらないようにするためには、私たちは何をしなければならないのだろうか。

◆ 配慮の不平等と社会モデル

 編集部から私が依頼されたのは、本誌07号の批評だった。ずいぶんと遠回りをしてしまったが、ケアの射程を以下では本誌07号のものに狭めながら、この本来の課題に戻ることにしよう。
 健常者とされている人びともまた、潜在的には、みな要介護者だということ、それを今回の大震災はあらためて明らかにした、と冒頭で述べた。しかし、これに急いで続けなければならないのは、すべての人が何らかのケアを必要とする要介護者であるにもかかわらず、その必要を当たり前のように満たしてもらえる人と、そうでない人という分断があるということだ。
 一方に「配慮を必要としない多くの人びと」がおり、他方に「特別の配慮を必要とする少数の人びと」がいる、という考えは根本的に間違っている、と社会学者の石川准は指摘してきた(『見えないものと見えるもの』医学書院、242頁)。例えば、多くの健常者が使う階段と、車椅子利用者が使うエレベーターを比較せよ。どちらも配慮であることに変わりはない。エレベーターなしに車椅子利用者が二階に上がれないのと同じように、健常者もまた(ロッククライマーか棒高跳びの選手でもないかぎり)階段なしには二階に上がれない。しかし、健常者のための階段は、あって当たり前の配慮であるがゆえに、それが配慮であることさえ見えなくなるのに対して、車椅子利用者のためのエレベーターは、その人たちのためにわざわざ設えられたものだと認識される。
 石川は続けて言う。正しいのは「すでに配慮されている人びと」と「いまだ配慮されていない人びと」という見方である。「多数者への配慮は当然のこととされ、配慮とはいわれない。対照的に、少数者への配慮は特別なこととして可視化される」(同書、242頁)。
 石川やその他の人びととともに、私はこの10年近く、障害学という学問の日本での立ち上げに微力ながら関わってきた(障害学会についてはhttp://www.jsds.org/ を参照)。英語圏でその形をととのえられた障害学は、impairmentとdisabilityを区別する。impairmentは、身体的・物理的な不具合──ということを超えて障害学では一つの「個性」と考える──だが、disabilityは、その身体的特徴を理由になされる一連の可能性剥奪のことを言う。
 加えて、障害学では、障害の社会モデルというものを、その医学(ないし個人)モデルに対置する。後者が、ある人が何かをできないことの理由を、その人のimpairmentに求めるのに対して、前者はその理由を、その人を取り囲む特定もしくは不特定の人びとの配慮の不足と欠如に求める。例えば、「あの人はなぜ私の論文が読めないのか」という問いに、医学(個人)モデルが「あの人は目が見えないからだ」と答えるのに対して、社会モデルは「私がそれを点字で渡していないからだ」と答える。同様に、「あの人はなぜ私の話が分からないのか」という問いに、医学(個人)モデルが「あの人は耳が聞こえないからだ」と答えるのに対して、社会モデルは「私が手話で伝えないからだ」あるいは「音声だけで伝えるからだ」と答える。
 社会モデルに反対する人たちは、すぐに「そんな調子では、キリがない」「何でもかんでも相手の言うとおりにできないだろう」といちゃもんをつける。そのとおり。何でもかんでも、できるわけではない。すべての「できない」ことが、他者の配慮によって解消されるわけではない。しかし、どこまでやれるかは、やってみなければ分からない。最初からできないと決めてかかることで、石川の言う配慮の不平等が固定化されるだけではない。非障害者自身が自分で自分の可能性を剥奪することにもなるのである。そう考えることもまた、社会モデルであり、障害学だ。
 障害学は、学問であると同時に実践である。視覚障害者、ろう者、手話のできない聴覚障害者、車椅子利用者、そして特に障害のない者、等々が集まって、研究会を開く。大会を開く。学会誌を出す。そこで何かが伝えられ、共有されることそれ自体のために、今までにない、いろんな知識が蓄積されていく。
 障害学という取組みの中で実感するのは、私自身が障害者だということだ。手話ができない、点字ができない、等々。と同時に、ケアという実践が、他者の可能性を開きつつ、自分自身の可能性を開くということも実感する。昨年、私のいる東京大学駒場1キャンパスで障害学会の第7回大会が開かれ、大会長をつとめた。「ええっ、それは無理だ」「できない」と最初は思うことがいくつもあり、結局、できなかったことも少なくなかったけれども、「なんだ、できるじゃないか」と思うことも多かった。
 世の中には、線を引きたがる人がいて、なぜ、そんなことをしていいのか、しなければならないのか、それをするには根拠が、資格が必要だと言う。そういう考えにも一理あるけれども、できるのなら、すればいいという単純な原理もある。ケアが始まり、広がっていくのは、私の考えでは、前者ではなく、後者である。
 本誌07号の論文で、中西正司は、介護サービス事業者に認められて然るべき行為が、法律によって医療行為とされているがゆえに、医師資格等がなければしてはならないとされている現状を批判している(62頁以下)。今では一定の条件下でヘルパーにも認められるようになったが、これは例えば痰の吸引をめぐって問題になったことだ。何でもかんでも認めるわけにはいかないだろう。しかし、できるのなら、すればいい、認めればいいという原理にもとづいた柔軟化が必要だと私も思う。

◆ 自己へのケアを取り戻す

 しかし、中西は、単純に、できるのなら、すればいい、認めればいいと言っているわけではない。「当事者の自己決定」にもとづいた柔軟化を主張しているのである。ここは重要な点だ。自己決定なら何でも認めるということではない。自己決定にもとづかないことは、認めないということである。この二つは違う。
 安全性という装置の中で、ケアの収奪とその集中、独占が生じうるということを、先に述べた。社会的な安全性(社会保障)という装置の中でも、それが「専門家支配」(E・フリードソン)という形で確立されてきた。ケアする側が、ケアされる側の意向に左右されることなく、何が必要なケアかを決定していくという体制が、プロフェッションの自律性(オートノミー)という言葉で正当化されてきたことの一つである。
 中西たちが「当事者主権」という言葉で開こうとしていることの一つは、このような枠組みの中で収奪されてきたケア、より正確には自己自身に対するケアを取り戻す営みだと私は理解している。ケアする、されるという言い方をした。しかし、こういう言い方自体が、実は間違いである。ケアされる(とされた)者が、すでに自分自身をケアする主体なのである。何をいつ食べるのか、いつトイレにいくのか、等を自分で気づかう主体であることを自分で自覚し、また他人(介助者)に認識させることから、自立生活は始まる。他方、介助者も相手を、自分自身をケアする主体として認めることから始めなければならない。
 しかし、ここで言うケアは、ゼロ・サムの原理では動かない。つまり、Aが一定量のケアを取り戻せば、Bのケアがその分消えてなくなるわけではない。ケアを単に物理的運動量として、つまりは肉体労働としてのみ理解することができるならば、ゼロ・サムの原理も強く作動するだろう。例えば、相手が自分で立って歩くようになるなら、介助者は移動の介助をしなくて済む。狭義のリハビリテーションは、そうなることを重視するけれども、自立生活運動や障害者運動は、そういう志向が自分らしく生きることにはつながらないという認識から出発したのだし、実際問題として身体機能が大きく変化することはない。障害をもつ当事者が自己へのケアを取り戻すということは、だから物理的運動量を取り戻すということではない。どう生活するかに関する決定権を取り戻すということだ。そのことによって、介助者の肉体労働は減らない(増える場合もあるだろう)。加えて、介助は単なる肉体労働ではない。感情労働という言葉を使うことに私は違和感があるが、肉体労働に還元されないさまざまな配慮が介助に求められることは事実である。
 要するに、介助という関係において、自己決定の論理は、自己責任の論理を帰結しないし、帰結できないということだ。あなたが自分で決めると言うなら、私は一切関知しません、とは言えないのである。一方におけるケアの回復は、他方におけるケアの消滅を意味しない。双方のケアが必要であり、しかもその二つが交錯しなければならないのである。
 今年で26年目の介助者経験をふまえて、私が思うのはそういうことだ。

新自由主義と当事者主権

 上野千鶴子辻元清美との対談で、次のように述べている。「ドイツでゾチアール・マルクト(社会的市場)という概念を学んで、ものすごく勉強になった。マルクトというのはマーケット(市場)ね。それにソーシャル(社会的)な原理を接ぎ木する。市場原理とは異なるものを、それこそ水と油のように異なるものを、接ぎ木するわけ。そこには制度の一貫性などないけど、水と油だからドレッシングになる。ほんらい混じらないものをブレンドする。ブレンドする配合がよいと絶妙な味が出る。ネオリベか反ネオリベかという二者択一じゃないのよ」(『世代間連帯』岩波新書、一三四頁)。
 上野によれば、ドイツの「社会的市場」は、市場原理にもとづく「ネオリベ」と市場の失敗を是正する「社会民主主義」という二項対立を超えるものなのだそうだ。しかし、社会的市場というモデルは、オルドー新自由主義に属するA・ミュラーアルマックが提唱したものであり、その制度化はオルドー新自由主義者をブレーンとしたL・エアハルトによって推進されたのである。つまり、社会的市場というモデルは、ネオリベ社民主義の折衷ではなく、新自由主義そのものなのである。
 上野だけではないが、ネオリベという日本語はかなり安易に、そして不正確に用いられている。ネオリベとは言いつつも、そこで含意されているものが、オルドー新自由主義の批判した「旧」自由主義でしかないことが少なくない。旧自由主義とは何か。それは、競争原理をそれ自身で窒息させる自由放任主義である。自由放任にもとづくかぎり、競争原理は独占を加速する。強い資本がますます強くなり、他のあらゆる資本を吸収していく。レーニンは、それを「生産の社会化」と解読し、社会主義まではあと一歩だと考えた(『帝国主義岩波文庫、43頁)。独占が程なく生産手段の国有化に転化すると考えたからである。
 オルドー新自由主義は、レーニンのこの診断をある意味で共有しつつ、しかしレーニンに抗して、競争原理をそれ自身で窒息させないために自由放任主義と訣別した。だから「新」自由主義なのであり、それは第一に、競争のための介入、競争の組織化を求めた。第二に、万人を起業家にすること。そのための再分配の必要性をオルドー自由主義は認めた。だから「社会的」市場なのである。第三に、消費者主権。労組を含めて生産者(供給者)に主権を認めてはならない。競争は消費者(需要者)主権によってこそ活性化され続ける。
 日本の介護保険そのものが、こういう新自由主義の論理に動かされている可能性について考える必要があると私は思う。新自由主義ではないものの可能性を正しく開くためにも、新自由主義なるものを正確に理解する必要がある。公的セクターではなく、民間活力を動員せよ。事業者を、また地域を競争させよ。そういう競争のしくみをデザインせよ。新自由主義のそういう論理は、日本の介護保険制度に見え隠れしている。
 おもねることなく、さらに言うなら、障害者の自立生活運動が新自由主義の水路に呼び込まれていく可能性もあると私は考える。当事者主権という主張は、オルドー新自由主義の強調した消費者主権とどう違うのか。また、雇用主モデル(障害者を介助者の雇い主と位置づけること)は、万人を起業家に、という新自由主義のプログラムとどう違うのか。新自由主義的な要素が強まるなら、介助を受ける者(需要者)と介助する者(供給者)、さらに介助する者同士が、互いに分断されていくだろう。そうなる可能性を明示しなければ、「当事者は、たんなる利用者、消費者ではない」、「当事者主権とは、サービスという資源をめぐって、受け手と送り手のあいだの新しい相互関係を切りひらく概念でもある」(中西正司・上野千鶴子『当事者主権』、2003年、5-6頁)という、さらに掘り下げが必要な言葉の重要性も見えてこない。
 1959年のゴーデスベルク綱領で、ドイツ社民党はオルドー新自由主義に屈服した。同綱領の中の「可能なかぎりの競争を、そして必要なかぎりで計画を!」という言葉が、それを象徴している。それでもドイツ社民党は、オルドー新自由主義が主題化することのなかった理念を一つだけ、その後も把持し続けた。同綱領は、「社会主義の基本的価値」として、「自由」「公正」「連帯」という三つの理念を提示したが、最後の「連帯」がそれである。
 本誌(の前身)が以前に特集も組んだ賀川豊彦が目指したものは、オルドー新自由主義が掲げたような単なる消費者主権ではなかったと私は思う。人間を生産者としてのみとらえるのではなく、消費者としてもとらえること。また、生産者の集団からも排除される人びとともつながること。そして、生産者と消費者を分断するのではなく、両者をつなぐこと。賀川を私は手放しで称賛するつもりは全くないが、そういう意味での連帯を模索した賀川の姿勢と実践は評価されるべきだと思う。
 災害ユートピアの中で充溢するのは、(広義の)ケアと同時に連帯である。制度としての介助や介護を、災害という例外状態と無関係のものとして設計するのではなく、この例外状態で閃くものにも照らしながら構想すること。今、日本でおこっていることに何も関係づけられないようなケアの社会学に、さしたる展望はないだろう。自戒を込めてそう思う。(了)

拙著『社会』における誤訳(ベンヤミン)について

標記の件につき、この場を借りて、訂正と説明をさせていただきます。

【1】まず、何をどう訂正すべきかですが、拙著『社会』の84頁9行目以下を、きわめて不十分ながら、以下のように訂正しなければなりません(【 】内が訂正後の文言)。

《……「この運動が時流にのって躍進している理由は、議会主義を時代遅れとして否定するからだ。この運動は、神【秘】的要素をたずさえつつ、新たな活動へと神【秘に包まれながら】突入していく。束稈は、力の束となった。しかし、そこに刺さった『恐れ』と『服従』という二つの斧は、その刃先をそれだけ一層、ギラッと光らせている」[引用情報省略]。
 議会主義の否定が新た【に】「神【秘】」を生み、そこからファシズムという暴力が誕生する。その現場を、ベンヤミンは目撃した。「神的」暴力をそこから救出するためには、議会制民主主義そのものを救出する必要があったのだと私は思う。》

 上の引用の第2文以下をもう少し正確に訳すなら、「この運動を時流にのせる要素は、神秘的なものと結合しながら、さらにまた、束稈を力の束にしていく」というところでしょうか。

【2】次に、私が何をどう誤訳したのかですが、上の原文(写真)をご参照いただければ分かるように、私は原文の「mystisch(神秘的)」という言葉を「mythisch(神話的)」だと思い込んで、邦訳していました。これは誤「訳」以前に、誤「読」で、私には「mystisch」が「mythisch」にしか見えなかったのです。

【3】なぜ私が、このような読み取り間違いをしてしまったのか。──理由は、いくつかあります。
 (1)この言葉で締め括られているベンヤミンのインタビューは、「神話mythe」という言葉で自らの「サンディカリスム」を語ったソレルの、その弟子であるG・ヴァロアに対するものであること。
 (2)ベンヤミンは、ヴァロアたち「アクション・フランセーズ」の活動を、はっきり「ファシズムFascismus」という言葉で表現していますが、ファシズムは(ソレル同様)「神話」という言葉によって、自らの運動を美化していったこと。例えば、ベンヤミンのこのインタビューから3年後の1930年に、ナチの御用哲学者であるA・ローゼンベルク(Alfred Rosenberg 1893-1946[ニュルンベルク裁判にて死刑])が公刊した『20世紀の神話 Der Mythus des zwanzigsten Jahrhunderts』のことが思い出されます。
 それから無論、(3)ベンヤミン自身が『暴力批判論』で提示した「神話的mythisch」暴力という概念。
 これらがすべて私の頭の中で連結して、私には原文の「mystisch」が「mythisch」としか(文字通り)読めなかったのです。

【4】しかし、ベンヤミン自身は、このインタビューでヴァロアたちの運動を「mythisch」ではなく、「mystisch」という言葉で表現している。本来なら、このインタビューの初出文献にまでさかのぼって確認すべきかもしれませんが、少なくともSuhrkamp版の全集には「mystisch」として収録されている。──それは、何を意味するのか。
 私の誤読・誤訳がそうなのですが、もし、ベンヤミンがここで「mythisch」という言葉を使っているのなら、彼のアクション・フランセーズ(=ファシズム)に関する評価は、明確です。『暴力批判論』(1921年)で、ベンヤミンは「神話的」暴力を否定しましたから、この運動がここで「神話的」という言葉で形容されているなら、それもまた明確に否定されるべきものなのです。
 ところが、ベンヤミンは実際は「神話的」ではなく、「神秘的」という言葉を用いている。「神秘的」というのは、要するに「得体がしれない」「謎めいている」「見極めがつかない」ということです。つまり、ベンヤミンは、このインタビューをおこなった1927年の段階では、この運動がどのようなものかに関する最終的な判断を、留保していたように思えるのです。もう少し肯定的に言えば、「議会主義を時代遅れのものとして否定する」アクション・フランセーズにも、それなりの可能性を見ていたのではないか。少なくとも「唯‐議会主義」の限界をベンヤミンは認識し、それとは異なる政治の可能性を、ヴァロアたちの運動にも見てとった上で、「神秘的である(=その行く末が分からない)」と評したのではないか。
 私の『社会』における解釈でも、ローザ・ルクセンブルクベンヤミンは「唯‐議会主義」を良しとしているわけではない。しかし、私の上のような誤読・誤訳だと、ファシズムとの対比において、ベンヤミンを今度は過度に「(唯‐)議会主義」の方に押し戻してしまう。その意味で「誤読」「誤訳」なのだ、と自己批判を込めて言っておきます。

【5】その延長線上で、あらためて確認すべきなのは、「(唯‐)議会主義」の限界と欠陥でしょう。1932年秋に、ナチは普通選挙によって第1党になり、翌33年1月にヒトラー内閣が発足する。しかも、1919年からドイツでは女性参政権が認められているわけで、男たちも、女たちも、ヒトラーに一票を投じた。このことの意味を、どう考えるべきなのか。

 教育基本法の改「正」が、今まさに日本の国会を通過しつつある。それを可能にしているのも、普通選挙であり、議会主義です。さらには、改憲のための国民投票も、秒読み段階に入っているように私には思えます。そこで、どのような結論が出されることになるのか。──私たちは今、一体、何を考えるべきなのか?

【6】(2006年11月22日追記) 以上のような誤読、誤訳があったことは事実です。しかしながら、あらためて強調させていただきますが、拙著『社会』の上の箇所で述べた私自身の考えは、少しも訂正の必要を感じていません。「議会主義を時代遅れとして否定する」運動がまた、「恐れ」と「服従」という斧を刺した「束稈(ファスケス)」を生み出した、ということ。そして、「神的」暴力をそこから救出するためには、議会制民主主義そのものを救出する必要がある、ということ。問題は、この救出の途が何であるか、です。その途を、拙くはありますが、私は「議会制を超える議会制」という言葉で表現しました。